写真家紹介   ロバート・アダムス Robert Adams  

1937年、アメリカ生まれ。西部諸州を移り住み63年より写真を撮り始めた。アメリカ人にとってのフロンティア=アメリカ西部の自然に囲まれたハイウェーやドライブイン、住宅地など、人工物のありさまを虚無感たっぷりに切り取った風景写真で知られる。情緒や称賛の念を廃した、科学的なまでの客観性をたたえたモノクローム写真は、新しい美へのアプローチとなり、ジョージ・イーストマンハウスでの「ニュー・トポグラフィックス展」('75)で取り上げられ、ルイス・ボルツなどとともに風景写真の新世代として注目を集めた。世界各地でアメリカと同様の開発が進むと共感の輪はさらに広がり、80年代ニューカラーへと橋渡しをする動きとなる。(金子義則)
 

写真家紹介   リチャード・アヴェドン Richard Avedon  

1923年、ニューヨーク生まれ。デパートの広告写真撮影からキャリアを始め、『ハーパース・バザー』誌のアートディレクター、A.ブロドヴィッチに重用されてから華々しい活躍が始まった。モデルをファインダーの向こうに静かに佇ませるのではなく、躍動感のある動きを求め、生々しいルポルタージュや映画的な表現を持ち込み、意外性のあるコラージュを駆使するなど、「劇場型」の個性が当時のファッション写真の常識を次々と塗り替えた。オードリー・ヘップバーン主演の映画『パリの恋人』('56)はアヴェドンがモデル。'66年から『ヴォーグ』誌へ移籍して活躍する一方、浮浪者や炭坑夫などを大迫力で活写したシリーズ「アメリカ西部にて」を発表して物議を醸し、ベトナム戦争、ベルリンの壁崩壊などを伝えるなど社会派の面も。宇多田ヒカルのCDジャケットを手がけるなど、日本での話題も多かった。'04年脳内出血で死去。(金子義則)
 

写真家紹介   デヴィッド・ベイリー David Bailey   

1938年、ロンドン生まれ。ジャズのレコードカバーに影響を受けて写真家を志し、1960年に『ヴォーグ』と契約。多様な着想と大胆な構図で、60年代キューティーズとして信奉されたモデルたちや、ストーンズなどの旬なセレブたちを精力的に活写し『ヴォーグ』を盛り立てた。その手から多くの流行やファッションミューズが生み出されたと言っても過言ではない。スウィンギング・ロンドンと呼ばれたこの時代、ファッション写真がサブカルチャーの重要な触媒として活性化し始め、写真家の存在もロックスター並みになったが、ベイリーはその典型で、カトリーヌ・ドヌーブとの結婚やジーン・シュリンプトンとの愛人関係など、私生活でも華やかな話題をまいた。(金子義則)
 

写真家紹介   ピーター・ビアード Peter Beard   

1938年、ニューヨーク生まれ。少年時代に読んだアイザック・ディネーセンの小説に憧れ、エール大学を卒業後、61年にケニアへ移住した。ツァヴォ国立公園で管理の仕事をしながら、人と動物、自然との関係についての洞察を深めつつルポルタージュ手法で写真を撮影。密猟や干ばつによって倒れていくアフリカ像の姿を訴えた大量の写真も含めて刊行した日記/博物誌的な写真集『ジ・エンド・オブ・ザ・ゲーム』('65)は大きな反響を呼び、その後何度も再版されてビアードの代名詞となっている。やはりケニア北部の湖で行ったナイルワニの調査も同じスタイルで『アイリッズ・オブ・モーニング』('73)にまとめられた。80年代以降は写真やコラージュ作品の展示活動も精力的に展開し、ニューヨークとケニアを中心に活躍を続けている。(金子義則)
 

写真家紹介   マーク・ボスウィック Mark Borthwick   

1966年、ロンドン生まれ。80年代後半の『i-D』『THE FACE』などの雑誌に多く寄稿。ミュージシャンのポートレートなどが多かったが、その後、ファッション写真で注目され始める。写真のボケやブレを活かし、被写体へシンプルな視線で迫るミニマリスムが特徴。作為のない癒されるようなスナップで、私小説的な世界観を発信するその話法は90年代に、マルタン・マルジェラなどのファッションや、キャット・パワーなどのオルタナティブ・ロックと強い親和力を持ち、フランスの『Purple』誌でたびたび取り上げられて、カリスマ的な人気を集めた。手書き文字やスケッチなど援用する表現手法は多彩で、他に映像や音楽も発表している。(金子義則)
 

写真家紹介   ギィ・ブルダン Guy Bourdin   

1928年、パリ生まれ。第2次大戦後の兵役後、画家として活動したが、マン・レイなどシュールレアリストの影響を受けた写真作品が業界の目にとまり、55年2月号の仏『ヴォーグ』誌に初めてファッション写真が掲載。豚の生首がならぶ肉屋の前に着飾った女が立っているという奇抜なものだったが、見る者に深い空想を示唆するような構成の面白さが評価されるようになり、60年代のシャルル・ジョルダンの広告写真などを手がける。ヘルムート・ニュートンやデボラ・ターバヴィルらとともに、70年代ファッション写真に決定的な影響を遺した奇才と評された。91年にこの世を去るまで1冊の作品集もなかったが、2001年に回顧写真集『EXHIBIT A』が完成。03年から世界各地を巡回した回顧展も大きな話題となった。(金子義則)
 

写真家紹介   ハリー・キャラハン Harry Callahan   

1912年、アメリカ生まれ。ミシガン州立大学工学部を卒業後、自動車メーカーに勤務しながら趣味で写真を始める。アンセル・アダムスに影響を受け大型カメラでの撮影を開始。ゼネラルモーターズで写真を担当した後、シカゴ・デザイン研究所教授を務めるかたわら精力的に作品を制作し、エドワード・スタイケンらによって認められる。妻エレノアや娘バーバラをモデルに、無機質だが普遍的な造形美の面白さを表現したシリーズが有名。ニューヨークやシカゴなど都会の風景や木々のディテールなど、写真の再現力の美しさに気づかせる哲学的な写真作りも後進に影響を与えた。77年のベニス・ビエンナーレでは写真家として初めてアメリカ代表に選ばれる。99年没。(金子義則)
 

写真家紹介   ラリー・クラーク Larry Clark   

1943年、アメリカ生まれ。60年代に兵役を終えて戻った故郷オクラホマ州タルサで写真活動を始める。失われた青春期への思いを託しつつ、ドラッグに溺れたティーンエイジャーたちの実態を、赤裸々なモノクローム・ルポとして記録。写真集『タルサ』('71)として発表し社会に衝撃を与えた。その後長く写真家としては謎の存在だったが、同じく少年たちの行き場のない欲望に向き合った『ティーンエイジ・ラスト』('83)で表舞台に。彼を、現代アメリカの狂気と捉えるより、思春期のピュアネスへのアプローチとして再評価する動きが90年代のアート界で高まり、アーティスト、マイク・ケリーが共鳴を示すなどカリスマ的存在に。マーティン・スコセッシ監督らの助力を得て『KIDS』('95)で映画監督デビュー。その後も『ケン・パーク』『ワサップ!』など精力的に映画制作を続けている。(金子義則)
 

写真家紹介   ウィリアム・エグルストン William Eggleston   

1939年、アメリカ生まれ。テネシーの大学などでアートを学び、ブレッソンやウォーカー・エバンスの影響を受けて写真の道へ。65年からカラー写真の制作を始め、変わり行くアメリカ南部の風景を絵画的タッチの鮮烈な色彩で描写していく。名キュレーター、ジョン・シャーカフスキーに見出されて76年、ニューヨーク近代美術館で個展「William Eggleston's Guide」を開催。撮影者の体験へと見る者を強く引き込む写真は賛否両論を巻き起こし、これをきっかけに、当時の「モノクロ=アート写真、カラー=広告写真」とする前提が壊れ、スティーブン・ショアーやリチャード・ミズラックらにつながる写真の「ニューカラー」ムーヴメントが起きることになった。80年代にアメリカ各地を撮影した写真は名作『THE DEMOCRATIC FOREST』に所収。(金子義則)
 

写真家紹介   ロバート・フランク Robert Frank   

1924年、スイス生まれ。47年に移民としてアメリカへ。ファッション写真を志向し、アートディレクター、A.ブロドヴィッチのもと『ハーパース・バザー』誌で働くが、次第にドキュメンタリー写真で才覚をあらわした。フォトジャーナリストとして仕事をしていた55~56年、グッゲンハイム財団の奨学金を受けて全米を旅行しながら撮影。格差社会の現実や大衆の倦怠感など、リアルなアメリカ社会を描写した傑作写真集『ジ・アメリカンズ』('58)としてまとめられる。当時はアメリカの栄光を否定するものと酷評されたが、客観性に重きが置かれていたフォトドキュメンタリーを、私的な表現ができるアートの1ジャンルとして開拓した功績は大きい。59年以降は映画も手がけ、写真との中間的な表現を模索する『Lines of My Hand』('72)を刊行。90年代以降に再評価の動きが高まり、世界各地で回顧展が開かれている。(金子義則)
 

写真家紹介   ラルフ・ギブソン Ralph Gibson   

1939年、ロサンゼルス生まれ。サンフランシスコ美術大学で学んだ後ドロシア・ラングの助手に。ニューヨークではロバート・フランクの映画制作助手を務める。大胆にディフォルメした静物やヌード、実験的な構想による荒い粒子のモノクローム作品は、シュルレアレスムの影響を感じさせつつ、私的なファンタジーも盛り込まれた。70年代には写真集専門の出版社ラストラム・プレスを設立。『Deja-Vu』('73)など自身の写真集を出すだけでなく、ロバート・フランク、マリー・エレン・マークやラリー・クラークなどに作品発表の機会を与えた名編集者の顔も。後に抽象的なカラー作品も手がけ、ミニマリスムに連なる現代アーティストとして認知されるようになった。(金子義則)
 

写真家紹介   アンドレ・ケルテス Andre Kertesz   

1894年、ブダペスト生まれ。18歳でカメラを買い独学で写真を習得。25年にパリへ移住するとフリーランスとしてグラフ誌などで働き始め、レジェやマン・レイなどアーティストとの交流の中でシュルレアレスムや構成主義の影響を受ける。ライカを愛用した彼のスナップショットはストレートな作法ながら、被写体や風景が異世界にあるかのような表情で切り取られ、水の反射や鏡を用いたディストーション・シリーズなど優れた着想の作品を次々と発表。20~30年代のアバンギャルド・ムーヴメントの中で注目を集め、ブレッソンやブラッサイなどの写真家に影響を与えた。36年にアメリカへ移住すると『ヴォーグ』誌などで撮影。64年にニューヨーク近代美術館で個展が開催されて以降、アメリカでも評価が定着した。85年没。(金子義則)
 

写真家紹介   ウィリアム・クライン Wiiliam Klein   

1928年、ニューヨーク生まれ。アメリカ陸軍除隊後、パリの画家レジェのもとで絵画を学んだ後、写真を実験的に採り入れたアートを『ヴォーグ』誌のアートディレクター、A.リーバーマンに見出されファッション写真の分野へ。ブレやボケ、アレなども排除しない活力あふれるスナップ手法は、56年の名作写真集『ニューヨーク』で話題となり、さらに、広角レンズや型破りなフレーミングなど、絵画や建築などの素養で裏打ちされたファッション写真は、後の写真家たちに多大な影響を与えた。65年に『ヴォーグ』誌を去った後は映画を手がけ始め、虚飾のファッション業界を皮肉りつつ当時の風俗を巧みに描写した『ポリー・マグー お前は誰だ?』('66)や『ミスターフリーダム』('69)などを発表。80年代からまた写真撮影を始め、フランスを中心に再評価されるようになった。(金子義則)
 

写真家紹介   ジャック・アンリ・ラルティーグ Jacques-Henri Lartigue   

1894年、パリ生まれ。カメラマニアの父親から8歳でカメラを与えられ、写真日記を始める。絵画を本格的に学び、画家としての創作を軸にし続けたが、終生アマチュアとして写真を撮影。自動車レースやスケート、簡易飛行機に興じるベルエポック期の上流階級の様子を記録したスナップは、20世紀初頭のファッションや風俗資料として素晴らしいだけでなく、どれも童心から見つめる一瞬の面白さに溢れ、見る者に彼自身の体験を分け与えるかのようなスリルに満ちている。描写主義の写真からモダニズムへの転換期を創った一人とも評され、リチャード・アベドンが写真集『Diary of a century』の中で紹介して以降、再評価が高まった。86年没。(金子義則)
 

写真家紹介   ロバート・メイプルソープ Robert Mapplethorpe   

1946年、ニューヨーク生まれ。プラット・インスティチュートで絵画、彫刻を学び、歌手パティ・スミスと共同生活を営みつつ、コラージュやインスタレーション、ポラロイドカメラを使った作品を制作。早くから、性器や同性愛などタブーな耽美的な自己の性癖を打ち出し、静物やポートレート、ヌードなどのジャンルを横断しつつ高い完成度のアートを発表し続けた。黒人ヌードシリーズでは黒人を西洋彫刻の系譜に大胆に重ね合わせて賛否両論を巻き起こし、そのことで世界的な名声を得ていく。ボディービルダー、リサ・ライオンのポートレートシリーズを制作した80年代からは広告写真も多く手がけた。ホイットニー美術館で初めて回顧展が企画された写真家となったが、89年、エイズにより惜しまれつつ43歳の若さで死去。(金子義則)
 

写真家紹介   ヘルムート・ニュートン Helmut Newton   

1920年、ベルリン生まれ。ユダヤ人迫害を逃れオーストラリアで市民権を獲得。オーストラリア版『ヴォーグ』の仕事を手始めに頭角をあらわし、62年からパリへ。仏『ヴォーグ』で認められファッション写真家として活躍していたが、70年に心臓発作を起こし、創作的な仕事に専念し始めた。早くから映画やドラマからの着想が滲んでいたニュートンの写真は、次第にヨーロッパ上流階級や社交界をシチュエーションに、性的退廃、フェティシズムを濃厚に取り込んだ演出で強いオリジナリティを形成していく。時にサドマゾ、露出狂なども連想させるイメージはポルノぎりぎりと言われたが、その技術と戦略は卓越しており、76年の『White Women』、80年代の『Big Nudes』シリーズなど名作写真集を通してアーティストとしての評価を不動のものにした。2004年にハリウッドで事故死。(金子義則)
 

写真家紹介   マーチン・パー Martin Parr   

1952年、イギリス生まれ。マンチェスター大学で写真を学びフリーランスに。当初から独自のユーモアを感じさせるフォトジャーナリズムに特徴があり、サッチャー政権下の市民生活を撮ったシリーズで物議を醸す。80年代にニューカラーの影響を受け、中判カメラでのカラー写真に転向。88年に写真家集団「マグナム」に参加する頃からカルチャー誌でもたびたび特集が組まれ、世界中を旅しては、社会の表層をはぐようなシニカルな視点と鮮烈な色彩の写真を発表し人気を高めていった。その精神はファッション広告撮影やBBC番組ディレクターとしての仕事にも発揮。編集センスの光る写真集、書籍をいくつも発表して話題をまく一方、各地で展覧会を開催している。(金子義則)
 

写真家紹介   アーヴィング・ペン Irving Penn   

1917年、米国ニュージャージー州生まれ。『ハーパース・バザー』の著名なアートディレクター、A・ブロドビッチの教えを受け絵画を志すが、『ヴォーグ』のアートディレクターだったA・リーバーマンに写真の才能を見出され、ファッション写真の道を歩み出す。美術的なトーンは保持しつつ、肖像でも静物でも、その社会的な意味や時代性をクリアに打ち出してみせる彼の写真は、戦後ファッションの大衆化に伴走する形で、ファッション写真の範疇を大きく押し広げた。テント式の移動スタジオをかかえて旅し、シンプルな布バックを背景に世界中の民族を撮影して回った成果は、1974年の写真集『小さな部屋のなかの世界』に収められ、その後の写真家たちに大きな影響を与えるスタイルとなった。(金子義則)
 

写真家紹介   ヴァレリー・フィリップス Valerie Phillips   

ニューヨーク生まれ。クラスメイトや家族など身近な人々のポートレートを撮影しながら写真家として活動を始める。女性同士の共感とともに踏み込めるティーンの奔放な日常と、健康的なセクシーさを捉えたカラースナップや、ガーリーな躍動感のあるファッション写真は、エレン・コンスタンティンなど、90年代後半の世界的な女性写真家ブームの渦中で注目を集めるようになった。ロンドンへ移り住み、インディペンデント誌からメジャー誌まで幅広く寄稿するかたわら、イギリスやフランスのギャラリーでも積極的に展示活動を展開。ドクターマーティンなど広告写真も手がけている。(金子義則)
 

写真家紹介   ジャック・ピアソン Jack Pierson   

1960年、アメリカ生まれ。ボストンのマサチューセッツ美術カレッジで写真を学ぶ。日常への哀切なフェティシズムを感じさせるスナップ写真で知られ、ナン・ゴールディンやフィリップ・ロルカ・ディコルシアなど、写真の話法に共通した特徴がある"ボストンスクール"の重要な一人と捉えられる。ニューヨーク、パリ、ロスなどを移り住んでいた90年代以降、活発に展示活動を展開。ライトボックスやネオンサインを使うなど、アイディアとグラフィック感覚に溢れたインスタレーション、時に私小説的な自省と甘美を感じさせる作品群は現代アートとしての評価を高めていった。個々に特徴のある写真集もコレクターの人気を集めている。(金子義則)
 

写真家紹介   ベッティナ・ランス Bettina Rheims   

1952年、パリ生まれ。写真家のアシスタントなどを経験しながら、自らの友人たちのポートレートを発表。それが『エゴイスト』誌の目に留まりデビューした。『ヴォーグ』『フィガロ』などの雑誌で活躍。一方、ストリッパーやダンサー、売春婦たちなど社会の辺境に生きる人々へ生々しくもエレガントなタッチで迫るポートレートやヌードフォトに特徴があり、初期の写真集『フィメールトラブル』でその裸体観を集約して見せ、後に同じ手法で動物の剥製シリーズを発表し、ポートレートに生死観という奥行きがあることを示した。揺れ動く若者たちのセクシュアリティを捉えた『モダンラバーズ』は彼女の作風の白眉とされ、さらに『シャンブルクロース』ではカラー写真で豊かな背景のあるヌード写真を披露するなど、毎回異なる知的なコンセプトが盛られた写真集でファンを魅了している。(金子義則)
 

写真家紹介   セバスティアン・サルガド Sebastiao Salgado   

1944年、ブラジル生まれ。法律と経済学を学んだ後、ロンドンの国際コーヒー機構の職員としてアフリカで調査活動にたずさわるうち、写真家に転身。干ばつの被害を追ったルポルタージュなどで実績を重ね、84年に写真家集団マグナムの正式メンバーとなって国際的フォトジャーナリストとして知名度を高める。社会的困難を抱えたアフリカ、中南米、東南アジアの現場へ積極的におもむき、貧困や紛争の中で生きる弱者に懐深く入り込んで取材。問題の核心へ知的な光を当てつつ、マクロな史観をもってスケール大きく描く写真はアート界からも賞賛を集め、90年の湾岸戦争では燃えさかる油田火災などの地獄絵図を伝えて物議を呼んだ。肉体労働者たちを描いた『Workers』('93)など写真集の力作も数多い。(金子義則)
 

写真家紹介   トーマス・シュトゥルート Thomas Struth   

1954年、ドイツ生まれ。デュッセルドルフ美術アカデミーでゲハルト・リヒターに絵画を、ベルント・ベッヒャーに写真を学ぶ。物体の存在をコンセプチュアルに捉えるタイポロジーの手法を写真に応用する"ベッヒャー派"のひとり。私的な見方を取り除いて、被写体が訴えかけるものをディテール豊かに撮影。欧米やアジアの都市を、それぞれの文化エッセンスを抽出するように捉えた「街路」シリーズ、人物との間の時間を絵画的に定着させたポートレート、そして名画と現代の観衆とを巧みに対比させた美術館のシリーズなど、現代社会を独自に把握し昇華した創作は、どれも現代アートとして高い評価を得ていった。90年代以降では自然に着目した「パラダイス」シリーズが有名。(金子義則)
 

写真家紹介   ジョック・スタージェス Jock Sturges   

1937年、アメリカ生まれ。西部諸州を移り住み63年より写真を撮り始めた。アメリカ人にとってのフロンティア=アメリカ西部の自然に囲まれたハイウェーやドライブイン、住宅地など、人工物のありさまを虚無感たっぷりに切り取った風景写真で知られる。情緒や称賛の念を廃した、科学的なまでの客観性をたたえたモノクローム写真は、新しい美へのアプローチとなり、ジョージ・イーストマンハウスでの「ニュー・トポグラフィックス展」('75)で取り上げられ、ルイス・ボルツなどとともに風景写真の新世代として注目を集めた。世界各地でアメリカと同様の開発が進むと共感の輪はさらに広がり、80年代ニューカラーへと橋渡しをする動きとなる。
(金子義則)
 

写真家紹介   ヨーガン・テラー Juergen Teller   

1964年、ドイツ生まれ。ミュンヘンで写真を学び、80年代初めにロンドンへ移住。ロードムービーのワンシーンのような、硬質なモノクローム・スナップで注目を集め、『i-D』『THE FACE』などのカルチャー誌で重用されるようになった。以後、ロンドン発の若手写真家の代表格として盛んにメディアで特集され、各地で写真展を開催。ラグジュアリーブランドやスーパーモデルたちであっても、自己のリアリティに引き寄せて赤裸々に、ヒューマニスティックに語りかける撮影スタイルが、90年代ファッション業界のドレスダウン・ムーヴメントを牽引した。キャサリン・ハムネットやヴィヴィアン・ウエストウッド、マーク・ジェイコブスなど数多くのブランドキャンペーンを手がけている。(金子義則)
 

写真家紹介   マリオ・テスティノ Mario Testino   

1954年、ペルー生まれ。70年代後半からロンドンに移り住み写真を修得。80年代に『THE FACE』『ARENA』などのカルチャー誌で撮影を手がけるようになり、スーパーモデルブームに同伴した新世代フォトグラファーのひとりとして存在感を発揮し始めた。彼のポートレートやファッション写真は、ストレートで、時にニュートンばりのグラマラスなインパクトを交えるものの、色彩や構図から独特の気品が溢れ、グッチ、バーバリー、ヴェルサーチなど多くのメガブランドが次々と重用。『ヴォーグ』『ヴァニティ・フェア』などでセレブリティの優れた肖像をいくつも発表するかたわら、悪ふざけの効いたスナップ写真集もリリースするなど、多彩な振り幅で写真の素晴らしさも伝えている。(金子義則)
 

写真家紹介   ヴォルフガング・ティルマンス Wolfgang Tillmans   

1968年、ドイツ生まれ。80年代末より自分の友人たちやクラブピープルたちと自分とをテーマに写真を撮り始め、92年にロンドンへ移住後は『i-D』『THE FACE』などのカルチャー誌で活躍。虚飾を廃しリアリティを指向する、当時の若者ファッションのドレスダウン・ムーヴメントと伴走するように、そのゲイ・セクシャリティ、私小説的な思索を感じさせるシンプルなスナップショットは、まずオルタナティブロック的に、その後ファインアートとして高い評価を集めていく。ニューヨークやロンドンを移り住む中で、風景や静物、ヌード、抽象的プリントワークなど多様な形態で作品を発表し続け、2000年にはイギリスで最も権威ある現代アート賞、ターナー賞を受賞。その動向が多くのアーティストへ影響を与え続けている。(金子義則)
 

写真家紹介   エレン・フォン・アンワース Ellen von Unwerth   

1954年、ドイツ生まれ。パリ「エリート」の所属モデルとして約10年活躍した後、写真家へ転身。当初はルポルタージュを志向したが、次第に彼女自身のモデル経験を活かしファッション写真へ軸足を移す。キャサリン・ハムネットに見出されキャンペーン写真に抜擢。さらにデニムブランド「GUESS?」の90年前後のキャンペーンを継続的に担当し、70年代までの男まさりな女性美ではなく、セクシーな女性らしさを明るく自然に打ち出した、ルポの手法を巧みに活かしたスナップ写真で一躍世界に知られた。クラウディア・シファーらスーパーモデルたちをリラックスした雰囲気の中で演出できる女性、という立ち位置も貴重で、その後の女性フォトグラファーたちの台頭を勇気づける存在にもなった。(金子義則)
 

写真家紹介   アルバート・ワトソン Albert Watson   

1942年、イギリス生まれ。ロンドンで映画やデザイン、写真を履修後アメリカへ渡り、70年代から『GQ』『ヴォーグ』などで活躍するようになった。ファッションや静物など被写体を問わず、その写真には映像やデザインセンスの援用が見て取れる。ライティングなどの繊細な技術に支えられたグラフィックな楽しさに溢れ、シャネル、リーバイス、GAPなどの広告やCDジャケットの傑作を数多く生み出した。商業写真での成功のみならず、多数のCFも監督。彼独特の深みのあるモノクローム写真の美意識は、多くのセレブリティも参加した写真集『サイクロップス』('94年)で結実し、アーティストとしての評価が高まった。英国王室の公式写真を手がけたこともある。(金子義則)
 

写真家紹介   ブルース・ウェーバー Bruce Weber   

1946年、米国ペンシルバニア州生まれ。ニューヨーク大学で映画製作を学びモデル経験を経て、ダイアン・アーバスとの知古をきっかけに写真の道を歩み出す。82年に手がけた「カルバン・クライン・アンダーウェア」の1枚のポスターは、均整のとれたギリシャ彫刻のような無名男性アスリートのセミヌード姿を撮ったもので、ゲイがタブー視されていた当時の社会の中で大反響を呼んだ。以後、広告写真のジャンルがファインアートに迫りうる市民権を得る。撮影の多くはモンタナやマイアミビーチなど4か所に彼が持つ広大な別荘やコテージの周辺で行われ、美しい思い出の光景として見とれてしまうような彼のスナップ写真による広告の数々は、ウェーバー固有のアートとして、またアメリカン・カルチャーの一部として定着していった。写真集の名手としても知られ、80年代半ばからほぼ毎年のようにリリースされる工芸品のような写真集は高く評価され、コレクターズアイテム化している。(金子義則)
 

写真家紹介   荒木経惟   

"アラーキー"の愛称とともに多彩な活躍を続け、既に200冊以上の著作を刊行する、おそらく世界で最も名前が知られる日本人写真家。1964年写真集「さっちん」で第1回太陽賞。71年には最初の写真集「センチメンタルな旅」が自費出版で刊行。この写真集から始まる"私写真"は、後に90年代のガーリーフォトブームの出現に大きな影響を与えたと言われている。70年代後半から白夜書房を中心に多数の写真集を刊行してたが、国内での評価は低かったが、その常にエロスとタナトスを表裏一体のものとして写し出す独自の世界を持つその作品に対して、80年代後半から海外での評価が高まり、90年代以降世界で最も注目を集めるアーティストの一人となる。多彩で旺盛な創作意欲は今も尽きる事なく、花を16年間に渡って撮り続けた写真集「愛ノ花」や、「アラキは5人いる」と語るようにその多彩な世界が反映された「好色」など次々と出版され、また世界中の美術館で企画されたカタログもその多様な世界に反応した興味深いものが多い。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   石内都   

国際的に活躍する女性写真家。1947年、群馬県桐生市生まれ、53年に横須賀に転居し、ここで育つ。79年に「絶唱・横須賀ストーリー」で第4回木村伊兵衛賞受賞。76年から撮影された初期三部作「横須賀ストーリー」、「APARTMENT」、「連夜の街」のシリーズは、生まれ育った横須賀などの風景やアパートなどの生活空間を取りあげる。88年の「1・9・4・7」では、47年生まれの女性の身体に刻まれた年輪に、生の刻印を読み取り、ここから身体をテーマにした作品群が始まり、90年代を通じ国際的評価が一気に高まる。2000年の母の遺品を撮影した「Mother's」で、母の喪失という誰にも共通する内面的世界に踏み込み、高い評価を得、05年のヴェネチア・ビエンナーレの日本館代表作家になる。近年は、きずあとのシリーズをまとめた「scars]や広島の原爆の記憶と対峙した「ひろしま」で、さらに深化した世界が展開されています。写真集は、比較的最近のものは入手可能ですが、すぐに絶版になるものも多い。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   植田正治   

戦前、戦中、戦後にかけて活躍した世界的にも著名な写真家。1913年鳥取県西伯郡境町(現境港市)生まれ。1932年上京し、オリエンタル写真学校を卒業後、郷里に帰り19歳で写真館を開業。以後、境港市を離れず70年近く写真活動を行う。特に、白い砂丘の上に、緻密な構成に基づいて、配置され人間たちがたたずむ砂丘写真シリーズは、独特の演出表現がユニーク極まりなく、フランスで日本語表記そのままにUeda-cho(植田調)という言葉で広く紹介されている。2000年の没後、2005年頃より再評価の動きが出始め、2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価は高まる一方。生前からオリジナルの作品集は少なかったため、まだ写真集でまとまっていないものもあり、『カメラ毎日』に70年代に発表されたシリーズを大田通貴さんが編集を手掛けた「hysteric Sixteen 植田正治 小さい伝記」のように、写真集化と同時に大人気になって売り切れる形が今後も続くと思われる。また1980年代の広告やファッションでの仕事なども含め、海外での展覧会カタログでは、まだまだ掘りつくされていない、植田正治の世界を追う企画が多い。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   大森克己   

1990年代後半以降、幅広く活躍する人気写真家。63年神戸市生まれ。94年フランスのロックバンド"マノネグラ"のラテンアアメリカツアーを撮影したシリーズ"GOOD TRIPS,BAD TRIPS"で、キャノン写真新世紀・ロバートフランク賞を受賞し脚光を浴びる。写真集は、フィリピンなどを旅して撮影された『VERY SPECIAL LOVE』や、撮る側と撮られる側の瞬間の交感が心地良い、知的障害者達のバンドを捉えた『サルサ・ガムテープ』など初期の作品集から、近年の長い歳月撮り続けて来た「桜」をモチーフにした『encounter』や『Cherryblossoms』での、美しいだけの桜の写真とは異なる、出合いの瞬間のきらめきのさまざまな印象を捉えたものまで、一貫しているのは、ありがちな認識に流されがちな対象を、その写真によってさり気なく新しい視点と認識を感じさせてくれる点にあり、人気写真家の側面を越えて目の離せない存在の写真家。
(柳 喜悦)
 

写真家紹介   尾仲浩二   

1960年福岡県生まれ。82年東京写真専門学校を卒業後、森山大道ら写真家たちによる自主運営ギャラリー「CAMP」などの活動を経て、88年にギャラリー「街道」を開設。以後自ら運営するギャラリーで活動していく。「街道」閉鎖までの4年間発表し続けたシリーズ『背高あわだち草』を92年にまとめた同名写真集で高い評価を得る。日本各地を旅し、どこかなつかしさを感じさせるさびれた地方の光景を、モノクロで撮影しつつもありがちなノスタルジアとは異なる微妙な空気感を醸し出す写真で根強いファンが多い。99年にカラープリントの現像機を暗室に入れて以降、ネガカラーでの撮影になり、2001年東京をとらえた写真集『TOKYO CANDY BOX』を刊行。続く『hysteric five』では、これまでモノクロで捉えてきた地方の風景をカラーで写しだし、カラーの独特の色合いのなかに、今ある時間と記憶が織り成す不思議な空気感を醸し出している。最近では、10年以上経た過去のネガを見直す事から、記憶の遠さの中で新たに生まれた感覚が生み出した印象的な『The Dog in France』などが刊行されており、また海外での評価も高く、03年に刊行後すぐに完売絶版となっていた『Slow Boat』は海外で再刊がなされた。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   佐内正史   

ここ1~2年、今最も人気のある存在と言われており、またそういえる活躍を続けている写真家。1968年 静岡県静岡市出身。24歳で写真を始める。95年の「写真新世紀」で優秀賞に選ばれた。97年の最初の写真集『生きている』が、大きな反響を呼ぶ。標識、ドアのノブ、マンションの階段、スクーターの座席、テーブルの上の灰皿……、ありふれた日常の眺めを写し、そこから溢れ出た透明な感傷がもたらす空気感が、多くの共感を呼んで人気を得る。以降は、CMをはじめとした映像にもその活動を展開。2002年自費出版した『MAP』で、第28回木村伊兵衛写真賞を受賞。多くの出版社から写真集を出すほか、自らの佐内正史写真事務所からも写真集を出すなど、出版数は数多い。デビュー作以来多くの作品集のアートディレクションを手掛けた町口覚さんの優れたデザインも含め、写真集という本としての写真にこだわっている作家でもある。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   沢渡朔   

1960年代半ばから活躍し始め、73年に「NADIA 森の人形館」と「少女アリス」の二つの写真展と写真集で衝撃的な成功を得て以来、40年以上の間今も変わらずトップフォトグラファーとして活躍し続けている。特に女性を題材にした作品は独特の薫りを持つ世界が有名で、その写真は作家的仕事でも、数多のグラビアなどの商業ワークでも常に変わらぬ視線の在り方で、すべて同じに高いクオリティ、テイストで写し出してしまう不思議な圧倒的力がある。今も復刊の声の多い名作NADIAは、73年の写真集で未収録の別シリーズである、「Nadia in Sicily 1971」が2004年に刊行されており、こちらは蒼穹舎の太田さんの編集と原耕一さんのデザインで素晴らしい写真集として人気が高い。その太田さんの編集で、60年代の作品をカラーと白黒とでまとめた「60's」「60's 2」は、時代の息吹きが伝わると同時に、写真の持つ視線の在り方が今も変わらず、現在の写真集としての魅力を醸し出している。近作では、同世代の森山大道と競演した「別冊『記録』 N0.1」で、ふたりの対照的な強さと魅力にあふれた世界が展開されている。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   杉本博司   

現代美術の写真表現において第一線で活躍する世界的に知られる作家。1948年東京生まれ。立教大学経済学部卒業後、70年に渡米。ロサンジェルスのアート・センター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学ぶ。ニューヨークに移住し、写真を用いた現代美術の活動が始まる。現実と虚像の間を視覚が往来する、76年から始まる「ジオラマ」シリーズを経て、78年より、映画の上映時間分の長時間露光による「劇場」シリーズで世界的評価を勝ち得る。その後も、80年から世界中の水平線を撮り続ける「海景」、97年から、無限大の倍の焦点で世界の有名建築を撮影した「建築」などのシリーズで高い評価を受け続けている。2003年からは「歴史の歴史」展を度々開催。杉本自身が選んだ古美術品と、写真作品を組み合わせて一緒に見せる試みを行っている。コンセプチュアル・アートとも隣接した、明確なコンセプトを持った写真のため、オリジナルプリントは世界的に人気が高く非常に高価になっている。そうした背景もあって、写真集というよりは、展覧会カタログや、展覧会と連動した作品集という形態で、刊行される事が多く限定特別版が出る事もしばしばあり、コレクターアイテム化している。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   鈴木理策   

日常生活から続いていく場としての聖地などをモチーフにした写真作品で国際的に評価を受けている写真家。1963年、和歌山県新宮市生まれ。87年、東京綜合写真専門学校研究科卒業。98年、東京から故郷・熊野のお燈祭りへ向かう旅の時間をとらえたロードムービー的写真集『KUMANO』で高い評価を得る。続く99年、熊野の花窟神社の祭礼と青森の恐山を撮影した写真集『PILES OF TIME』で第25回木村伊兵衛写真賞受賞。以後、日本人にとって普遍的な表象といえる桜をモチーフにした『hysteric Eight』や画家セザンヌが描いたことで知られるサント=ヴィクトワール山を撮った『MONT SAINTE VICTOIRE』などで世界的な評価を得ている。またその空間の持つ見えない世界を捉える写真世界に魅力を感じてか建築関係の写真の依頼も多く、なかでも青木淳さんは『KUMANO』を見て青森県立美術館の作品集の撮影を依頼している。最近は雪をテーマにした作品を多く撮影しており、海外での展覧会や出版も増えている。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   長野重一   

1925年大分県生まれ。7歳より東京に居住。慶應義塾大学予科在学時に写真サークルフォトフレンズに入会、野島康三の指導を受ける。47年9月に慶應義塾大学経済学部卒業し商社に就職するも、三木淳に誘われ名取洋之助が編集長であった「週刊サンニュース」の編集部員となる。49年、名取の誘いを受け「岩波写真文庫」の写真部員となる。退社までに約60冊の撮影を担当。このとき手掛けた『東京』『東京案内』がきっかけになって、東京をテーマに撮り続ける事になる。54年にフリーとなり、「カメラ毎日」などでルポルタージュの発表や「朝日ジャーナル」の社外ディレクターでのグラビアページの企画、編集とで大きな反響を呼ぶ。この時期に、時代の優れた随伴者という評価を得る。60年代からは映画やCMでも活躍。市川崑、羽仁進、大林宣彦監督の映画の撮影監督をしている。80年代から始めたシリーズ「遠い視線」で、自らの暮らしを取り巻く環境への興味で、東京の町を撮り続け、新たな評価を得ている。また時代との関連のみで語られて来た初期の写真も長い時間の経過によって、ようやく写真そのものを見れる環境が生まれ、再評価されつつある。今も続く「遠い視線」シリーズや改めて長野さんの写真の持つ、対象との独特の距離感の魅力が感じられる近刊の『香港追憶 HONGKONG REMINISCENCE 1958』などなど、今また注目すべき存在。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   中平卓馬   

「カメラになった男」という映画まである言わずと知れた伝説の写真家。1938年東京生まれ。東京外国語大学スペイン科卒業。新左翼系雑誌『現代の眼』編集者を経て、65年より写真家。68年に写真同人誌『プロヴォーク』創刊に中心的に関わる。3号のみで終わった雑誌だが、その後の影響力の大きさもあって、伝説の雑誌となった。社会が激動期でもあった60年代後半から70年代にかけて、粗い粒子の画面とフォーカスの逸脱といった「アレ・ブレ・ボケ」の手法と、先鋭的で旺盛な評論活動とによって、日本の写真表現の転換に多大な影響を与えた。73年の評論集『なぜ、植物図鑑か』で、図鑑のような直截性をもった表現へ転換していくなかで、77年、急性アルコール中毒で倒れて記憶の一部を失う。その後、撮影行為を再開し現在まで写真を撮り続けている。2003年にドキュメンタリー映画「カメラになった男 写真家 中平卓馬」と横浜美術館で『中平卓馬展 原点復帰―横浜』が行われたことで、再度大きな関心が集まってきて、写真集や評論が相次いで出版されている。また活動が実質的に休止されていた四半世紀の間に登場してきた若手作家には大きな影響を受けた人が多く、中でもホンマタカシは自らドキュメンタリー映画「きわめてよいふうけい」(04)を監督している。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   畠山直哉   

現代日本を代表する写真家として世界的に活躍する写真家。1958年岩手県陸前高田市生まれ。生家の近くに大規模な石灰石鉱山があったことから、高校時代から採掘現場や工場を油絵などで描いていた。筑波大学の総合造形コースで大辻清司に写真を学ぶ。86年から岩手をはじめ日本各地の石灰石鉱山や石灰工場を撮影したカラー写真の連作に着手。97年にそれらをまとめた写真集『ライム・ワークス』と写真展『都市のマケット』により第22回木村伊兵衛賞受賞し、評価を高める。都市の素材とでもいう鉱山での発破(『bird』)、都市風景としての高層アパートの夜の街灯や都市の裏面といえる渋谷の地下水路(『アンダーグラウンド』)など、都市の問題を多角的にとらえた写真群があり、2001年第49回ヴェニス・ビエンナーレ日本館出品や世界各地での個展開催などで国際的に評価されている。21世紀に入ってからは撮影場所も国際化(ドイツ、ルール地方のアーレンやフランス、カマルグ地方など)した。都市と自然という普遍性を感じるテーマにも関わらず、テーマに応じた撮影方法の選択にまで及ぶ、作品づくりの厳密さが美術方面から評価を高めており、作品集も国内外から出版されており、人気が高い。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   細江英公   

日本の戦後写真に新たな地平を切り開いた写真家。1933年山形県米沢市生れ。52年東京写真短期大入学。デモクラート美術家協会の中心人物だった瑛九を訪ねて強い影響を受ける。59年、東松照明、川田喜久治、奈良原一高らと写真家によるセルフ・エージェンシーとして、実質的活動はほとんど無かったらしいが、その後において伝説化した集団「VIVO」を結成。63年三島由紀夫の裸体写真集「薔薇刑」を刊行し、日本写真批評家協会作家賞を受賞。また海外からも国際的な評価も受ける。69年舞踊家土方巽をモデルに秋田の農村で撮影した「鎌鼬」を刊行し、衝撃を与える。この2作は、間違いなくこの時代の日本の"アングラ"と呼ばれた芸術の流れに多大な影響を与えただけでなく、日本の写真表現に衝撃的な変動を巻き起こしている。また海外でも同時代の代表作のひとつとして取りあげられている。70年代後半以降は、ガウディの建築を撮影するほか世界中で個展が開かれている。近年は、「薔薇刑」、「鎌鼬」の相次ぐ復刊もあって再び注目が高まっている。2006年には舞踏家大野一雄を46年間撮り続けた写真集「胡蝶の夢 舞踏家・大野一雄」が刊行され話題を呼んだ。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   ホンマタカシ   

この10年の新しい写真表現の潮流の中心人物と評される人気写真家。1962年東京生まれ。1984年日本大学藝術学部写真学科在学中に、広告制作会社ライトパブリシティに入社。91年退職しロンドンへ、ファッション・カルチャー誌『i-D』で活動。93年帰国後は、雑誌、広告など幅広いジャンルで活躍をはじめる。95年、最初の写真集「Babyland」を刊行。98年、無機質な東京郊外の風景と、そこに暮らす子どもたちを撮影した「TOKYO SUBURBIA 東京郊外」で第24回木村伊兵衛賞を受賞。その均質化した風景の持つ味わいそのままに、ドライでクールな視線が若い世代から絶大な支持を得た。2000年、雑誌「SWITCH」4月号から「建築・環境・写真」の機に現代建築を撮り始める。それらも含め、ランドスケープ表現の新次元として、海外での評価も高くなる。また2003年には伝説の写真家、中平卓馬の日常を撮影した写真集『きわめてよいふうけい』を出版し、2004年には同名の映画作品で監督も務めた。最近は、幅広い活動と平行して自費出版も手掛けている。(柳 喜悦)
 

写真家紹介   森山大道   

写真家を志す人の避け得ない通過儀礼とまで言われる程、圧倒的な影響力を残してきた写真家。1938年大阪生まれ。グラフィックデザイナーを経て、写真家の岩宮武二、細江英公に師事し、63年に独立。68年最初の写真集『にっぽん劇場写真帖』を発表。「アレ、ブレ、ボケ」と形容される荒々しい写真表現で60年~70年代の日本の写真界の先端を突き進んだ。『写真よさようなら』(72)など写真そのものを突き詰めた姿勢は後続の写真家に多大な影響を与えた。しばらくのスランプを経た後、80年代に入って雑誌「写真時代」などを舞台に再び、最前線に復帰しより多彩な展開を見せる。90年代には、ヒステリックグラマーからの一連の写真集で、コマーシャルな人気も火がつき、もはや前衛ではなく巨匠となっている。98年ニューヨーク・メトロポリタン美術館、2003年パリのカルティエ現代美術館での個展など、世界的評価も高い。ラジカルな写真表現、グラフィカルな画面構成ばかりに注目が集まっているが、『仲治への旅』『宅野』といった隠れた本質を醸し出す情感を持った名作もあるなど、その世界は、膨大な作品量と同じく幅広く、今なお、ものすごい勢いで出版され続けている。(柳 喜悦)